前回のポストで偉そうなこと書いたのに、あんまり進んでいません。
色々、方向修正が必要そうだったり、というのもあるけれど、なによりもあの大震災のインパクトは強烈だった。しばらくの間、そして今も継続して、あの震災の影響を抜きに考えられることは殆どありません。
当日の深夜まで復旧しない停電。辛うじてSkypeとtwitter、そして車のワンセグで途切れ途切れに状態が分る程度だった。電気が回復すれば、テレビからはすさまじい津波の映像により衝撃を受ける。テレビから目がそらせない。そして、原発の問題。
計画停電がはじまり、手元で動かしている各種開発サーバーの手当やら、今後どうするのかについて考えなければいけなくなった。とても簡単には解決ができないことばかりで、本当に大変であり、今も継続中。
当然だが、津波の影響をもろに受けた東北沿岸部や、原発からの直接被害を受けた福島県を中心とする人達から比べれば、たいしたことはない。サーバーの移動をはじめとして、自分で出来ることを着実にするしかない、と思っています。しかし、これからの日本のエネルギー事情と、今後絶対に来る東南海地震などを考えると、無防備のままではいけない、と強く感じています。
と、全然、事態が進まないイイワケはこの辺にして…
5月27日の午後、次世代電子出版とWeb 表現技術フォーラム in 東京のストリーミング中継を見ていた。本当だったら朝から見たかったところだが、昼と夜が逆転しており、朝からは耐えられなかったのだ。別にMacじゃみられないなんて! と拗ねた訳ではありません(タブン)。
で、ふと感じた事がいくつかあります。後半は、妄想が広がった感じで、全然表現技術からは乖離してますが。
すでに最低限の組版はできてるんじゃないの?
日本語なのに縦書きができない? とても紙のかわりなんてだめだね。禁則がない? そんなのありえない。ルビも振れないの?ダメでしょ。
こんな議論は常にあったように思います。XMDFなり.bookなり国内のビュワ/フォーマットは、実装可能で優先順位の高いものから実装していったと思います。
なんか、紙と「比べれば」足りないものは沢山のこってるかもしれない。けど紙じゃないし。というのが最近の印象。紙ではできないこともできる余地があったりもする。動画とか音声再生なんかが非常に分りやすい。
できる事が違うのは媒体が違うのだから当たり前のこと。新しく出来ることだけじゃなく、困難になることも当然ある。もう紙を模倣しようとしなくてもいいんじゃないかな。模倣の先に、明るい未来は私には見えない。
質疑応答の中で、編集者の意図した組版を逸脱していいのかという問題提起があったように思うけど、リフロー可能にするなら、もうそういうのはある程度諦めるベキだと思う。返答としてレイアウトを固定にしたいならPDFにすべき、という話がでてた。多分そういうことなんだと思う。
縦書き横書きを切り替えることがT-Timeとかで出来るのは、多分出自なんだよね。
もともと縦書きのコンテンツなんてなくて、横書きのテキストやHTMLをできるだけ見やすいようにして見せてくれるビュワ的な意味あいがあった。だから、縦横を切り替えられたり、いろんな表示オプションが豊富。古くからあるビュワは、そういう出自をもっている。
だけど、時代が変って、最初から縦書き前提でコンテンツが提供されるようになった。今は、縦書きだとか横書きは変更できなくてもいいのかもしれない。
でも、デバイスの表示エリアは千差万別といっていい。だから紙を前提として想定したレイアウトなら、それを維持する意味なんて薄いんじゃないだろうか。
視力の悪い人にとっては、とても大きなフォントサイズにしないと読めないかもしれない。その時、1行xx文字と指定されていたとして、それを優先して読者が読むことに苦労したら、電子書籍のメリットが減じているとは言えないだろうか。著者の強い意向があったとしても、色盲の人に判断がつかない文字色、背景色とかで指定されていたら?
程度の問題というのはあるかもしれない。問題集だったとして、問題が表のページで、解答が次のページに配置されているようなコンテンツは、改ページはやっぱり指定したいだろう。でも、すべてが紙と同じであるのが最適解とはいえないと思う。それが、表示系の実装上の課題だったとしても。
供給サイドにとっての理想
正直、個人的には横書きしかできないなら、それでもいい。ルビが振れないなら、それも許容できる。禁則が実現できなくても、許す。
自分が読みたいコンテンツが提供されてくれさえすれば。それも、自分がどのデバイスで読むかを強制されなければ、ね。
角川さんのBOOK☆WALKER とか頑張っていると思う。角川さんは映像作品やらと関連してラノベとか資産が沢山あるし、そういうのを最大限プロデュースしていきたいんだろうね。
んだけど、レーベルや出版社でショップアプリを組むというのは、やっぱり提供サイドの理想だと思う。
ある出版社の本が欲しい。ある書店で本が買えればどの本でもいい。
そんなことは普通じゃないわけで。
なにか読みたいモノがある。それをドコカで購入する。自分が読みたい環境で読む。
モノが電子書籍。ドコカが書店サイト。読みたい環境がデバイスとビュワ。
紙の本なら、これらの選択はユーザー主導なんだけど、どうも電子書籍の世界だとユーザーは置いてきぼり。
この辺から派生する各種事情が、電子書籍の「売れないスパイラル」の主要因なんじゃないだろうか。
まあ BOOK☆WALKER さんみたいなのは、まだわりと納得できる気はするんだけどさ。あと例えば、 講談社ブルーバックス アプリ みたいなのね。今はないと思うけど。
こういうレーベル的なアプリはショップとしてはアリな気はする。
でも、やっぱり、フォーマットはオープンなものにして、ビュワを固定にしないで欲しいとは思う。
そういう意味ではキンドルは色々と上手い。
キンドルだと、PCを含む色んなデバイスで見れるようにしてくれている。今後デバイスが変っても、同じように見れるのではないか、という期待を持たせる。読書に特化したデバイスも提供されているし。
出版社ではないので、いろんなところの電子書籍をまとめて見れるプラットフォームになっている。
すでに、確固とした紙のオンライン書店としてのベースがあり、ショップサイトとしても一定水準を越えている。
アマゾンが書籍以外にも手を出しはじめたころ、なんか潰れそうみたいな話があった気がする。しかし、今となってはそうそう潰れそうにも見えない、というのも大きい。まあ、分らないけれども。
ここまで出来ていているので、フォーマットが独自でDRMがかけられていても、「あまり」問題視されない。まあ気になる人は気になるとは思うけど。
ここまで、網羅的に推進できるところは、世界にそう多くは存在できないと思う。そういう意味では、アマゾンは一歩抜きんでてる。グーグルも頑張るとは思うけど、グーグルよりはアマゾンのほうが商売上手い気がする…
DRM
DRMがあると、フォーマットがパブリックなEPUBといっても、基本はビュワを制限される。
コンテンツ共有側はオーサリングとかコンテンツの用意では意味があるけど、DRMをかけたら、ユーザーからみてEPUBも独自フォーマットも大差なし。
購入したコンテンツ用のDRMをサポートしたビュワがディスコンになったら、もうコンテンツを見る手段はなくなります。
私は別に本好きじゃない。昔はともかく、今はもうそんなに読む機会もないし。そんな私ですら、毎年何十万円かは書籍を買ってる。月2万買ったらそれだけで24万なわけで、そんな人はごろごろいると思います。
以前、ばっさり故あって捨てたけど、捨てる前は本の為に部屋が1つあった。引越しもトラックが1台余分になったりする訳ですよ。まあこれは小学校の頃から、期間が長く捨てられなかっただけだけれども。電子書籍なら、この部屋が不要になるかと思うと、とても嬉しいだろうと思うわけです。
と、こ、ろ、が! DRMなんてのがかかってると、そういう資産が、他人の事情でゴミになったりするわけですよ。勝手にディスコンになったりしてね。10年もたてば累積数百万とかいう資産な訳です。当然、簡単に捨てたくないわけですよ。自分で捨てるのは、まあいい。でも勝手にゴミになるのは、許せないと思うわけです。また資料的な価値を減じる。
コンテンツを毎回読み捨てするのなら、コンテンツファイルの寿命なんて気にしなくていいのかもしれない。売店で買われて、電車で読まれて、降りたら捨てられる雑誌みたいなもの。こういうものであれば、蓄積する価値が元々ないのだとすれば、DRMが掛っていてもいいのかもしれない。権利者は、自分達が売ってるコンテンツには、保存したくなるような価値なんてないと思っているのかも。大分毒が混じってるけど。
この辺がもうすこしフレンドリにならないと、抵抗が生じます。まあ気にしない人もいるかもしれないけどね。
DRMがあると、本当に広範に影響がでる。
その上、完全に守ることなんて不可能。
人間がプログラムし、プログラムが復号できるデータを、閲覧する権限を有しているにも関わらず、保護することなんてできない。
暗号化は、途中の盗聴などについては機能する。
しかし、解釈系(ビュワ)が購入者の手元にあるのに、これを解析から保護するのはやっぱり難しいように思う。専門家ではないけれども。
DVDのDeCSSなんかそうだけど、一度仕組みが破られると、専門知識がない人もアクセスコントロールを容易に回避できるようになる。
後は法律で制限し、酷い場合は摘発して処罰することになる。結局そうなるなら、アクセスコントロールで不便にしなくても同じじゃないかと思う。DRMをかけなくても、著作権がなくなるわけじゃないのだから。
どうせ無理なら、前向きに対処することはできないんだろうか。例えば、人間、知らないものは、欲することはできません。コピーがそんなに広がるなら、それはある種の宣伝と捉えることもできる。
私も個人的には、youtubeやニコニコで見て、気にいって音楽を購入することはかなり増えた。その前は何年もずっと音楽なんて聞かないし、買わない時期もあったんだけどね。今は月1くらいでアルバムを買ってる気がする。共有サイトがなければ、見ないが、買いもしないだろう。そもそも知ることがない。
大体、紙の本だって、今や出版したらスキャンを止めることはできません。ある種の人は、脳内に記憶して、しゃべっちゃうかもしれない。
そんなに大事にしたいなら、出版なんてだいそれたことは考えず、大事に「誰にも見られないように」金庫にしまっとけ、といいたい。まあ、いいすぎました。
自分は権利者ではないので、強制することはできません。けど、売るということ、世の中にコンテンツを放出するということについて、もうすこし良く考えてみたらどうだろうか、と思うことは良くある。
国内でもオーム社さんやオライリーさんをはじめとして、non DRMの動きがはじまっていて、こういう動きを進めている関係各位には尊敬の念を抱きます。頑張って欲しい。
文芸書なんかも含む、大手出版社がそうなる日は来るのかな…
あと漫画。漫画は、色々と戦争になりそうな気もするけれど。
終りに
「次世代電子出版とWeb 表現技術フォーラム」なので、関連の技術的な問題について、識者が意見を出したりするのがそもそもの目的。そういう意味では何も問題はありませんし、参加者のことを非難するような意図もありません。
ただ日本でも電子書籍の歩みは10年以上あるのに、いつまでも夜明けをくりかえしている気がします。ビューティフルドリーマー的なお約束世界で連環しちゃってるのかな、とふと思ったもので。
日本での電子書籍は、今の延長線上では未来が開けないような気がします。上手く文章を書けないというか、それ以前の考えがまとまってないので散漫なんだけれども…
ある位置の関係者にとっては、これは心地いいくりかえしだったのかもしれません。
海外はともかく、日本は、まだこの先10年くらいは毎年電子書籍の夜明けをくりかえしているかも。10年先にどの程度出版の規模が維持されているのかは、よくわかりませんが。
この震災で、紙やインクの供給が問題になっているようです。本当は電子書籍の導入にはいい切っ掛けになるはず。実際に、震災後、雑誌などのオンラインでの公開実験やら、テレビでもネットでの配信やら、それまでだったらありえそうもないようなことがいくつかあった。残念ながら、それらの試みは概ね終ってしまったけれども。
電子書籍の話を聞いていて良く感じるのは、発言するような人は本当に(紙の)「本」が好きなんだなぁ、ということです。まあ当たりまえかもしれませんが。
でも本好きばっかりだから、とても「本」にこだわる。
購入する人は、そりゃやっぱり同じように本が好きな人は多いけど、供給サイドだったり発言をするような人たちほどの本好きばかりじゃないと思うんだよね。
そういう意味では、最近は若いWeb系の人が乱入してきていたりして、ちょっとだけ嬉しかったりします。
この辺の問題は、もちろん皆判ってるんだけれども、センシティブな問題なんで、なかなか取扱いに困るんでしょうね。何かこの辺を打開する方法はないか、と良く考えます。
最近は、紙の本に対する電子書籍じゃなく、紙の本はもうどうでもよくて、Web的なテキストコンテンツの世界をドライブしていけないか、と思ってるんですけどね。誰か、一緒にこういう妄想を抱く人とか、いませんかね。投げ銭でもいいけどw
色んな所で買った電子書籍やら、自炊した本やら、自分で作成したり誰かからもらった電子データをデバイスを跨いで自在に扱えるような情報インフラアプリが欲しいなぁ。検索とかも色々跨いでできてさ。