昨日、岩波ホールに「大いなる沈黙へ」を見にいってきた。
グランド・シャルトルーズ修道院の生活を切り取ったドキュメンタリー映画だ。
何か、色々と爆発しそうな感じだったけど、少しは柔らいだかもしれない。
映画自体は、想像はしてたけど、なかなかコメントしずらい映画だった。嫌いじゃないが、完全に人を選ぶ映画。
そもそも、修道院の規則として、バーバルコミュニケーションが殆どない(みたい)。
説明もない。書かれた文字も読めない、ときた。
ただ、風景や修道士の生活はとても詩的な映像だった。雰囲気に没入する映像といえる。
何をやってるか、判る部分も判らない部分もあるんだけどね。しかし、修道士の服装は萌えるなぁ。
しかし、言葉を交すのは限られた場所と時間のみ許される。そんな厳格な修道院の生活。
集団で食事やミサをするシーンもあったけど、基本は一人で独房で修行するような雰囲気だった。何しろ、食事を小窓から差し入れてるようなシーンまである。そこだけ切り取ったら刑務所かもしれない。きっと、他の人と接触せずに、普段は食事もしているんだろうと思わされる。
孤独に神と相対するのが修行なのだろう、きっと。
それでも、中世のままの生活とは違っていた。
頭を剃るのは電動のバリカン。蝋燭も使われているのに、詠唱しているシーンでは電気をつかった明りも使っているようだ。あまりにも明るく、揺らぎがないあの明り。電気だろう。
おまけにThinkpadみたいだがノートパソコンを使っている修道士までいた。電子楽器(シンセみたいなの)で音程をとっているようなシーンもあった。この辺はびっくりだ。
手を洗う仕草は壁にうめこまれた洗面器みたいなのに指をつけて手をあらうような「伝統的?」な様式。でも食事と一緒にペットボトルのミネラルウォーターも置かれていたり。
珍しく他の修道士と話すシーンの会話の中で、日常の生活の所作の中に象徴性が埋めこまれているというようなものがあった。そして、手を洗うのなんか必要ないとか、他の修道院ではもっと「きちんと」蛇口があって「きちんと」手を洗うとかいうような話をしていた。そして、そういう所作に象徴性があり、象徴性を破壊するというのは、自分の住んでいる家を破壊するようなものだ、と。
現代の何を取りいれ、何を取りいれないのか。その取捨選択に、どういう象徴性が隠されており、何を意味するのか。
とても興味を惹かれるものがあった。
修道士じゃなくたって、人それぞれ、日常の生活の所作に意識的にせよ無意識にせよ、何かの意図を含むことはよくある。何か映画をみながら、ふと気付くとそんなことを考えていた。
風景も綺麗だったが、何よりも、彼らが選択した生活様式を忠実に生きていることに、心動かされたなぁ。
あと、声明なんかもそうだけど、何を述べているのか意味は判らない。でも、独特の語りを聞いてると、心動かされる。この辺って、なんだろうね。人間の根源に働きかける何かがあるのかな。意味は全然判らないのに、何かゆりうごかされるナニカがあるんだよね。
宗教的な部分は、キリスト者ではなく、そもそも無宗教である俺には頷けない所も多いけどね。神と向き合うというより、自らと向き合っているように思えるけど、キリスト者の人からみると、また違うのかもしれない。
またみたい気はするんだけど、正直人が多い劇場はもう嫌かな。静かに一人で見てみたい感じ。
人は選ぶと思うけど、映像詩みたいなのが好きな人にはお勧め。
ダメな人にはダメでしょう。途中でやや静か目ながら、イビキも聞こえてました… orz
それにしても、岩波ホールは辛かった。
3時間に届こうかという長編なのに椅子の背が低くて固め。すっかり肩は凝るし腰が痛くて… シネマコンプレックスの椅子に慣れてしまったかな…
後、単館上映ということもあるだろうけど、凄く混んでいてびっくり。2回目の上映を見たんだけど、1回目は満席売り切れ。2回目も見た感じ満席だった。皆物好きだなぁ(ぉ
正直、人間嫌いな自分にはこの人の多さは拷問に近い。長時間、他人を気にしながら、姿勢を固く音を出さないようにと気をつかって肩が凝る。
どうしてこういう映画がストリーミングとかで見れないのだろうか。見にくるだけでも金がかかる。箱で見たいという人もいるのは判るけど、他人を意識せず安楽な状況でリラックスして見たいものだなぁ。
あ、あと、もう一つ。途中猫ちゃんがでてきてたけど、見た目は違ってるようにみえたけど、もしかして、シャルトリューは、この辺からですかねっ!